「語学だけで終わらない勉強をしていただきたい」~小島明子先生にインタビュー!

日本アジア言語文化学4 年の渋谷です。「新任教員インタビュー」として、中国文学を専門にする小島明子先生にお話を伺いました。  

  • 日時:2021 年 8 月 2 日(月)
  • インタビュアー:渋谷(日本アジア言語文化学プログラム 4 年)
  • インタビュイー:小島明子先生(新潟大学人文学部准教授)

研究内容について

学生:それではまず、小島先生の研究内容について教えてください。

先生:この15年ほどは、清末から民国初頭に生きた王国維について、特に文学分野において多く業績を残した青年期に着目し、周辺の事象とともに研究しています。

彼は晩年の歴史学方面での業績で著名であり、文学分野では近代批評の先駆者とされることの方が多いかもしれませんが、幅広く古典に精通し、古代の有名な作家にも匹敵するほどの腕前で詩詞を創作・批評している点でも評価できます。

また、彼が青年期、文学作品などを発表した『教育世界』という雑誌にも着眼しています。教育学分野を中心に各ジャンルの記事が掲載されていますが、日本資料の翻訳が大部分を占めており、当時の中国が翻訳を介し異文化を摂取していた状況が窺えます。

この雑誌は現在日中に散逸しており、長年実態が不明でしたが、それは王国維やその周辺に関する研究がこれまで主に中国で行われてきたため限界があったからとも言えるでしょう。

学生:このテーマを選んだ理由を教えてください。

先生:中国文学の研究者は、母校での教育体制のみならず、古典か近現代のどちらかを選び専門にすることが多いようです。特に日本では、教科書教材を中心に読まれているものや研 究されているものと受容されていないものとの間の差が開いており、日本独特の偏りが学界の現象として見受けられます。

不慣れな学生や若手はもちろんのこと、要領よく成果を出すのであれば、教科書教材を始め授業で読んだものの延長や、訳出されているものや学会で評価されやすいジャンルをまず選ぶでしょう。しかしそうして、研究されないものは一向に研究されないという悪循環を来しています。

過渡期の詩文は軽視され、扱う人は少ないため、とりわけ国内では研究が進んでいません。清末は訳が出ているものが少なく、王国維を読む 人も極めて稀です。

しかし、中国では王国維は魯迅にも引けを取らない国民的な文化人として認識されており、「人間詞話」は中学校の国語の教科書にも掲載され、入手しきれないほ ど訳注が刊行されています。

国際化が叫ばれ、研究者にも世界での活躍が求められる中、日本だけで通用する価値観をもってただ発表地や言語さえ変えればよいというのはあまりに浅薄です。まず、国内で中国文学を受容していることによる歪みはないか、世界にも通用し必要とされ評価に堪えうるという視点で研究しているのか。その意味で、王国維は研究する価値のあるテーマだと考えています。

これは個人的なポリシーにすぎませんが、学生の頃から、できて当たり前のことはしない、人がすることはしない、とまでは言い切れないものの、人がしないことをすることに価値を見出してきたと思います。

学問には境界がありません。学問は本来大学の専攻や研究室の枠を超えたところにあります。地続きなものも便宜上区分しているだけなのです。しかし実際にはそういった枠組みが学問を制限していることも折に触れ痛感してきました。

昨今、大学教育ではますます横断的な学習を推奨する傾向にありますが、伝統のある分野であればあるほど、特化した経歴が求められ、研究者の世界はまだまだ追い付いていません。だからこそ、皆さんにも自由な発想で制限なく学問に向き合ってもらいたいと考えていますし、そのような若手が育ち既存の学問を凌駕してゆく環境が整うことを願っています。

先生のこれまでのご来歴

学生:次に、先生のご来歴についてお聞かせください。

先生:子供の頃は、勉強が嫌いでした。私は早生まれで体が小さく病弱で、何事も人並みのことができなかったのですが、早くから受験勉強をさせられ、不利な競争にさらされて酷でしたね。

しかし、そんな当時の中にも現在の片鱗を見出すとすれば、昔話が好きだったのと、小学校ではいつもクラスで表彰されるのが嬉しくて、漢字ドリルの自由勉強を毎日提出していたことでしょうか。

中学以降は千葉県の実家から東京の学校に通いましたが、中高は西欧発祥のカトリック校であったため、英語に力を入れた教育環境にありました。しかし、私は信者でもなかったため、西洋的な校風の反動からかえって日本に根付く伝統文化に興味をもち、次第に国語科が好きになりました。

始めは校内で行われていた3学年統一の試験で同級生などに負けたくない思いで漢字の勉強をしていましたが、そのうち、個人的な趣味として高校生のうちに日本漢字能力検定協会の漢検1級を取得するという目標を立て、独学で実行するに至りました。お年玉貯金は大方、受検料と対策本でなくなりました。この過程で「駑馬十駕」(才能が劣るものも努力すれば才能がある者と同様になれるたとえ)という『荀子』を出典とする四字熟語に出会い、座右の銘として紙が色褪せるまで久しく机の前に貼っていました。

また、高校時代には、国語の教科書や便覧に掲載されている作家の純文学や思想書を中心に、自主的に読書をする習慣も身につきました。学校の図書室には日本文学関連のものが多く蔵されていたことから、主に新潮社の新潮日本古典集成、小学館の日本古典文学全集、岩波書店の日本古典文学大系などから出ている古典のシリーズを訳注を参照しながら渉猟しました。

高一の夏休みに『源氏物語』を原文で通読したのを発端に、『夜の寝覚』など平安時代の物語にはかなり惹かれましたね。また、近現代も、日本の有名な作家のものは大分読みました。高山樗牛『滝口入道』、谷崎潤一郎、福永武彦『草の花』、三島由紀夫の『豊饒の海』などが好きでした。この他にも、フランスのルソー、大デュマ、ゾラやモーパッサン、ロマン・ロラン、ロシアのトルストイ、ドストエフスキーなど、3年間で1000冊ほどはいきましたね。

しかし、遺憾ながら、この時読んでいた中国関係の本は大変乏しいものでした。教科書にも一部載っている『論語』や諸子について明治書院の新釈漢文大系や岩波文庫などから出ている全文に訓読や訳注を施したものや、唐詩や、吉川幸次郎氏や藤堂明保氏などの入門書くらいのわずかなものです。図書室で借りられた論文も、学燈社の『国文学』や志文社の『国文学 解釈と鑑賞』ほどと、中国文学らしいものには触れるきっかけがあまりなかったのです。

このように、高校時代は受験勉強にまったく身が入らなかったのですが、日本文学分野を専門に学ぼうと、勉強や読書が好きな学生が集まる別の大学に進学しました。しかし、意気込んで入学したものの、古典は仮名しか扱わないカリキュラムには興味が収まりきらないものがありました。

そこで、日文に在籍し規定の授業を履修しながら、中国語を第一外国語とした上、中文の授業も並行して履修することにしました。中文では文学のみならず語学に関しても古典と近現代両方が一通り学べるような環境があり、これらを一通り受講し、教員免許は中高の国語と中国語の2種類を取得、卒業時には結局中文の正規生よりも中文の授業を多く履修していました。

特に中国古典文学分野に関しては、学部2年生の時から大学院の授業にも参加し、やることは人の2倍以上ありましたので、寝食の時間を削るに削り、とにかく勉強に追われる大学時代を過ごしました。

高校以前には見たことのない漢字をひたすら吸収することが自分にとって当たり前となっていたため、中国語には自然と導かれました。外国の国名や外来語の表記が日本での当て字と同じまたは似通っていたり、旧字体は台湾の繁体字であったり、旧字体は同じでも日本で使用されている新字体と中国での簡体字は異なっていたりするのも新鮮でした。中国語が読めるようになれば読書の幅も一気に広がりそうで。中国語を選択した動機は今の普通の大学生とはかなり違うかもしれませんね。

漢字が好きというと、漢字自体、つまり成り立ちなどに興味があるのかと間違えられることもありますが、私の場合、習得した漢字やその語義などの知識により文章を解読できることに喜びを感じるタイプです。日本文学にも訳注がなくあまり多く流布していない古典は多いとはいえ、中国の古典は比較にならないほど知らないものが膨大にあり、しかし訳注が出され日本人の目に触れるものはほんのわずか、しかも母語ではないため何となくわかるといったことがほとんどありません。読書量を自負していた自分にとっては一つの壁であり、これはやり甲斐のある仕事ではないか、と思い始めましたね。

大学時代には課題のため以外の読書の時間がめっきり少なくなってしまいましたが、この頃から研究書や論文など量より質に重きを置くよう努めていました。川口久雄氏や小島憲之氏(親戚ではありません)などに影響を受け、日本漢文学や日中比較文学の分野に惹かれていきました。

また、母校に頼惟勤氏の寄贈書を収蔵した「頼文庫」なる狭い部屋があり、漢籍や関連書籍が並ぶ中、筑摩書房の『弘法大師空海全集』が収められていました。特に『文鏡秘府論』の巻は、それまで読んでいた日本文学のイメージを覆すもので、興味をかき立てられました。

日文で上代と中古のゼミを受けた学生はこのどちらかに進み卒論を書くことになるわけであり、漢詩文はしない慣行となっていたのですが、日本らしい文学はどちらも新鮮味がなくなっていた自分にとり、この狭間の平安初期の漢文学全盛時代を中心に日中の詩論研究をすることこそしっくりと来るものがあり、これが私の研究者としてのスタートとなりました。とはいえ、たかが卒論なのですが、母校ではデビュー作と認識されていました。

さて、『文鏡秘府論』を端に研究を始めましたが、実はこの書物は空海が編纂しているものの、中国の詩論の断片を収録したものであるため、日文に籍を置く以上、できることには限界がありました。そこで、大学院で正式に中文に籍を移動し、本格的に中国文学を研究することにしました。

また、卒論のため詩論に関する先行研究に当たっていた頃、中国の有名な文学批評として王国維の「人間詞話」というものの存在を知りました。しかし、こちらは日本語の訳がありません。もちろん王国維は批評のみならず詩詞の作品もたくさん残しているのですが、やはり日本語訳されていないのです。

そこで、これらを地道に読むことから着手し、王国維研究を始めました。以来、15年ほど王国維と向き合っています。

本学での授業について

学生:次に、先生が担当されている授業を教えてください。

先生:着任後これまで担当した専門の授業には、中国語(中国語セミナー、中国語コミュニケーション、中国語インテンシブ)のほか、アジア言語文化概説 C、アジア言語文化基礎演習、アジア言語文化演習、中国文芸文化論があります。

専門の授業に限定して紹介しますと、毎年開講している、2年生以上対象のアジア言語文化概説 C は、国語科教員免許を取得するための必修科目となっています。基本的に講義形式ですが、学生に課題として調べてきてもらったことを発表してもらう時間なども度々設けています。

皆さんが中国文学としてイメージするものはおそらく高校以前の漢文から来ている部分が大きいと思いますが、この授業ではまずこれまでの学習を見直すことから始めます。見直すというと、読み直すのかと思われるかもしれませんが、本学ではあえてそのようなことをしません。教科書教材は実はジャンルや時代に偏りがあり、中国文学のイメージが歪んでしまっているという事実に気づいていただくのです。振り返ってみてください。

『論語』は思想、『史記』は歴史、大学では通常中国文学専攻に属さないジャンルが多く含まれていたでしょう? 「文学」をどう捉えるかにもよりますが、我々の感覚で文学らしいと言えるものは一体どれほどあったでしょうか。

大学では、まず教科書によって刷り込まれていた常識を客観的に見ることが重要です。この授業ではその上で、古代から近現代に至るまでの各時代の代表的な作家や作品を順に具体的に紹介してゆきます。これまで出てきた杜甫や魯迅などを相対的にとらえ、点と点を線でつなぐことになると思います。

学生:国語科教員免許を取得するための必修科目とありましたが、どのような心構えで受講するべきでしょうか。

先生:教壇に立った時、学生に興味を持たせるためには、いかに多くの知識や読書経験をもつかが問われます。学生は教科書の内容には大概興味を示しませんので、教員もが教科書上の知識しかもたないのでは、惹きつけるものがなくなります。

たとえば、中国の近現代文学に関しては、教員でも魯迅(甚だしきに至っては「故郷」の翻訳)しか読んだことのない人が意外と多いのはゆゆしき事態です。よって、この授業では皆さんに様々な作品や本に触れていただくきっかけを用意しています。毎週課題が出てハードかもしれませんが、教員になれば雑務に追われながら授業準備もしなければなくなりますので、たくさんのことをこなす力もここで身につけていただきます。

学生:演習や発展講義の授業では何を行っていますか。

先生:2020 年、2021 年度担当した2年生以上向けの基礎演習では、六朝期の志怪小説の代表作である『捜神記』を中華書局から出ている現代中国語の注釈を参考に精読しました。

これは、私自身が中国語や文学史を習い始めたばかりの大学1年の頃、類似する現代語の訳注に挑戦し自力で読もうとしたものの、日本の古典の訳注のようにはスムーズに読めず、途中で断念した経験に基づきます。当時は結局、東洋文庫から出ている竹田晃氏の全訳を読みましたが、読みたかったのは中国語の訳注でしたので、今一つ満足できなかったのを記憶しています。授業で扱っているものは当時のものと出版社や訳注者も異なりますが、これくらいのレベルの学生の能力を引き上げるのにちょうどよい資料です。

毎年、主に中国文学分野の3・4年生を対象に開講しているアジア言語文化演習では、六朝期、梁の時代に編纂された『文選』という詩文のアンソロジーに収められている賦の代表作を取り挙げ、唐代に付された六臣注により精読しています。

『文選』は日本でも古くから受容されてきた中国の古典であり、大学の授業でも扱われやすいもののようですね。こちらは注も古文ですので、注を読むにも難航します。出てくる書名や人名をそれと判断し、出典を探さなければなりません。しかし、受講当初、句読点すらない白文に悲鳴を上げていた3年生が、1年間で随分成長するのをともに実感する授業です。

この他、発展講義に位置づけられている中国文芸文化論では、『太平広記』に収録されている唐代伝奇小説の代表作などを現代中国語の訳注を参考に精読し、古典を読む訓練を行っています。

講義以外の授業では、学生一人一人に当てて答えさせたり、発表箇所を分担させ、訓読、現代語訳、語釈、その他の調査事項を載せたレジュメを作成してもらい、検討したりしていますが、扱う作品に関しては今後変更する可能性もありますので、受講を検討している学生は事前にシラバスを確認してください。

学生:先生の研究テーマである王国維についての授業は行われていないのですか。

先生:1年生全体を対象とした人文系フロンティアのオムニバス授業で1回担当する際に、自分の専門分野の紹介として話したり、アジア言語文化概説 C で文学史上の代表人物の一人として触れたりするくらいですね。授業内容は主に六朝や唐代を中心としているため、なぜ専門と離れた内容を教えているのか、尋ねられることは多いのですが、私は研究と教育をかなり分けて考えています。つまり、自分の研究対象を授業では特別に扱わないようにしているとも言えるのですが、それには理由があります。

王国維は研究する価値があるように思いますが、学習には順序があり、清末は日本人の初学者向けではありません。清末となれば、それまでの時代の作品をふまえているので、ある程度の知識や調査方法を体得していないと読めない、さらには文体が近現代に近くなってきていますので、訓読がきかない場合もあります。

私はかつて日本の古語文法をまだ本格的に学んでいない中3の時に井原西鶴の『世間胸算用』を読みひどく難解だったのを覚えていますが、それまでの文学を学ばずに突然清末の文章を目にすれば、それ以上の困難を伴うでしょう。残念ながら本学の学生は授業で課されたことで精一杯の傾向が見受けられますので、そうなれば、授業では最低限学んでおきたい有名なジャンルの代表的な作品をまず扱う必要があります。

ただ、それにしても、本学では中国文学の授業は非常に少なく、それも履修できる学年が遅れているため、特に文学分野で卒論を書く学生には、早い段階で読書習慣を身につけてもらう必要があります。

1年生のうちはまず教科書教材でもよいので、まだ読んでいないものがあれば、本を探し通読してみてください。また、少なくともアジア言語文化概説 C で文学史を一通り学んだら、そこに出てきた作家や作品の書物をできるだけ多く手にとり読んでみることをお勧めします。授業ははじめの第一歩であり、きっかけにすぎないので、学んだことをいかに活かし自分で発展させるかが重要です。

学生:1 年生は第二外国語を学びますが、中国文学を専門に学ぼうとする学生はやはり中国語の授業を履修しなければならないでしょうか。

先生:語学の学習と文学の読解や研究は使う頭が異なりますので、確かにそれらを両立させることは難しい課題だと学生の頃より感じていました。

しかし、それでも、専門的に勉強しようとすれば、やはり語学が基礎となります。中国の文献で訓読が可能であるのは、およそ一定の時期までであり、時代が下るにつれ、訓読が困難になってきます。それに、研究するためには、中国語で刊行されている辞書を引いたり、注釈や論文を読んだり、海外で調査をしたり、そのために現地で生活する必要まで出てきますので、そのためのコミュニケーション力が必要となります。

また、この分野で大学の教員になるためには、通常語学をセットで教えられなければならないという、厳しい暗黙のルールがあります。この点、日本文学の研究者は日本語を通常教えませんし、言語学分野の研究者はそれほど文学を教える必要に迫られないことと随分状況が異なるんです。

しかし、中文に進まない学生も、関連分野の卒論などで急に中国語の資料に当たる必要が出た時にはもう遅いですし、中高の国語の教員になる場合でも、魯迅などを原文で読んでいたり、詩の中国語音を紹介できたりする方がより望ましいですよね。したがって、日本文学など隣接分野を専門にする学生にも中国語はお勧めしたいです。

高校生やその学問分野を目指す人に向けて

学生:ありがとうございます。では、最後に高校生や中国文学分野を目指す人にメッセージをお願いします。

先生:まず、この頃はコロナ禍で留学や渡航ができなくなったため、外国分野の魅力が減退しているようですね。しかし、(王朝の交代はあれ)古来どこよりも長く日本に影響を与え続けてきた隣国を学ぶことの魅力がなくなることは決してありません。

私はもともと軽率な留学や海外渡航には反対で、警鐘を鳴らしている方です。コロナ禍前には物理的な移動が容易なあまり、この動きが活発を通り越し過剰でした。海外旅行と大差ない安易な気持ちで留学を希望する人が夥しかった時代です。しかし、本当に必要な経験でしょうか。留学できないことがそれほど問題でしょうか。留学とはどのようなものかわかっていますか。短い時間を確実に有意義に過ごせるほど準備が万端に整っているのでしょうか。

私自身は、博士後期課程の時、必要が発生し、ようやく中国に渡航、留学しました。1回目は研究発表をする都合上、2回目は研究に必要な資料が日本にはなく、国内での研究の限界から留学しました。この時、初めて現代の中国を肌で感じる面白さもあることを知りましたが、遅いと後悔したことはありません。ですので、分野にもよりますが、学部生の段階で留学できなくても、あまり問題はなく、将来必要になった時に行けばそれでよいのではと個人的には考えています。

特に昨今では、国内でも外国語教育が発達し、ネイティブの指導も十分に受けられる仕組みが整っています。オンラインで海外の方々とつながることもできるのです。年輩層にとっては中国でしかできなかった勉強も今や国内でもできるようになっているということです。

また、留学にはメリットとデメリットがあります。世間では留学はよいもの、勉強しに行くというイメージが先行しがちであり、これは特に留学未経験者ほど多くある先入観ですが、実際はどうでしょう?現在(コロナ禍前)外国は勉強する気のない留学生で溢れていたり、現地では生活環境を整えたり異文化や共同生活に慣れるので一苦労と、学問に適した環境とは言い難いこともあります。

私が北京に留学した時は折り悪く大気汚染が深刻で社会問題ともなっていた頃で健康被害を受けたり、道を歩いていたら突然マンホールに落ちたりするなど、想定外の危険な目にも遭いました。これだけで、皆さんが思い描いているものとはかなり違った印象を受けるのではないでしょうか。

今日においては語学が得意になりさえすればそれでよいという短絡な考えにも陥りやす いことは気をつけておきたいものです。外国語を用い外国人とコミュニケーションをすることに魅力を感じる学生も多いようですが、その際に問われるのはどんなことでしょう か?

外国人は往々にして日本人に日本の文化について尋ねます。時には中国でも流行して いるアニメや歌手の話題も出るかもしれませんが、外国人は日本らしいものを知りたがります。そこで、外国人の方が日本のことを知っているようでは恥ずかしいですね。特に日本分野を専攻されている方々には頭が下がります。だから、我々も日本人としての教養を備えるのはもちろんのこと、外国の文化について十分な知識や理解がなくてはなりません。

一方、中国では伝統文化が身近であり、日本とは教育環境が異なるという事情もあります。私の中国語の授業で、中国の古代詩を現代語音で暗誦したり、現代風のメロディーで歌われたものを聞いたり、日本のことを紹介する練習をしているのは、このような観点からであり、皆さんには語学だけで終わらない勉強をしていただきたいと考えています。

先生:追加で人文学部の学生全体、また本学の学生全体へのメッセージもお伝えします。

本学は外語大並みではと思ったほど、外国語の教育において恵まれた環境があるため、学生は自然と鍛えられ、語学に強いようですが、読書習慣がない人が多いことは憂慮されます。読書は語学とは異なり、証明できるスコアにならないし、時間とともに記憶が薄れるので経験を有効に使いにくいという難点はありますが、(語学検定を除く)学問に受け身になり、決められた課題を最低限こなし、所定の単位を取得することで満足してしまうのでは、実に残念です。もちろん、課されたことをできるだけ完璧にやることは基本ですが、そこから自分でどう展開していくのかが最も重要なのです。それが学問です。

私は自分の学生時代の経験から、専門の授業に関しては、受講制限をしていません。もちろん制度上の都合から単位取得にかかる制限はありますが、学年や分野を問わず授業への参加を認めています。皆さんの学びたいという意欲にどこまでも応えたいのです。しかし、実際、他分野の学生であればなおさら、できなくても仕方がないというところに甘んじてしまっていて、水準が下がってしまうという問題が度々発生しています。どうか、別分野の学生にも、専門の学生や先輩を焦らせるくらいの勢いで臨んでもらいたい、そして、この分野にない新しさを吹き込んでほしい、あるいは自分の分野に持ち帰って応用し、その分野に影響を与えてもらいたいですね。

最後に、本学のキャッチフレーズに「真の強さを学ぶ。」というのがありますが、皆さんにとり、真の強さとは何ですか。私は「疾風に勁草を知る」という言葉が好きであり、これ までの人生はまさにそうでした。もしかすると、皆さんの中には、大学受験に失敗してしまった、あるいは勉強が苦手というレッテルを貼られ、劣等感をいつまでも抱えている人もいるかもしれません。

しかし、学歴や肩書に頼り慢心することほど恐ろしいことはないのです。時に非常識と言われることもあるかもしれませんが、今の時代の常識は次の時代の常識とは限りません。常識は常識とは考えず、むしろ覆すものとして捉えてほしいです。過去の例がないなど関係なく、例を自ら作ればよいのです。新大生には柔軟な考えと自由な発想をも って貪欲に学び、真の実力を身につけてほしいと考えています。皆さん一人一人の個性が最 大限に伸ばされ、いかなる時代にあっても生き抜ける、強くたくましい卒業生が世に多く出 ることを願っています。

蛇足ながら、大学院への進学を前提に研究生として留学を希望する外国人(特に中国人)からたくさんのお問い合わせをいただいています。しかし、私の専門分野を調べておらず返す言葉もないようなケースも少なからず見かけます。

そこで、この場を借りますが、私のところでは中国人であれば専門分野を問わないわけではないこと、(特に多いのですが)日本文学を主には勉強できないこと、日本分野での研究者や教員の養成は行っていないこと、しかし、自国でもできる研究テーマは歓迎できないことを改めて断っておきたいと思います。就職のためには日本での学位取得を捷径とのみ考えていると思われる矢鱈なご相談には応じられませんので、あらかじめご了承ください。

言語文化学主専攻プログラム

小島明子(こじまあきこ)先生

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